ダイバーシティということばからはじまる無数の広がりを感じた〈True Colors BEATS〉の一日

一緒に演奏することで音楽が変わっていく楽しさ

ひととひととをつなげ、出自も背景もちがう集団を調和し、なにかをともにつくりあげる音楽の力への疑いのなさをしめすことばでスピーチをしめくくり、アルゼンチンからやってきた音楽家はゆっくりとマイクを置いた。

「音楽は意味を伝達するコミュニケーションの一種ですが、話しことばや書きことばともちがい、その場にともにいることを感じ、伝え合うための言語なのです。音とリズムは空間を振動させ、その振動が私たちの耳に伝わりハートに届くわけですが、そのような行為をとおして私たちは調和していくことができるのではないでしょうか――」

開演にさきだち、およそうえのように述べたサンティアゴ・バスケスは数日前、参加者全員必修となるワークショップを開催し、きょうはそのお披露目の予定だったが、会場は当初予定していた代々木公園野外音楽堂から前日の台風にともなう荒天で、ワークショップを開催した日本財団ビルの8階に変わっていた。虎ノ門の高層ビルの隙間に、さっきまで鉛色だった空がところどころ雲をはらい陽の光さえさすのをみるのはいささかうらめしいが、サンティアゴの表情には一点の曇りもうかがえない。ワークショップが満足いく仕上がりだったからか、みずから長い時間をかけて考案したRhythm with Signs(リズム・ウィズ・サイン)のシステムへのゆるぎない信頼からか、観客をふくめ、すべての参加者とともにダイバーシティを考える催しの意義への確信からか、サンティアゴ・バスケスの柔和でありながら説得力に富むスピーチで2019年10月22日の〈True Colors BEATS〉は幕を切って落としたのである。

先述のとおり、会場が野外から屋内へ移ったため、規模の縮小はまぬがれなかった。それでも空間を有効に活用したフロアでは複数の催しが同時進行している。いましがたサンティアゴが話をしていたセカンドステージでは岸野雄一がレコードによる世界リズム紀行をくりひろげている、その上手側にはサンティアゴが指揮し、日本とアルゼンチンの音楽家やワークショップ参加者たちによる即興演奏のために設えた舞台が参加人員の総数と多様性を物語るように奥まで伸びている、そのさらに奥にはしまおまほや境みなとが似顔絵を書くスペースがあり、彼らの存在がちょうど反対側の地ビールの販売スペースとともに来場者をもてなしている。会場をみてまわりながら私は好天のもとなら、さぞ気持ちよかろうと夢想する一方で、屋内に場所を変えたことでネット中継が安定的に機能するかもしれないと思いもした。そんななか、不足の事態にもかかわらず、いやそれだからこそかえって、場をともにし、多様性を実感しようと幅広い層の観客が会場には続々とつめかけている。岸野雄一の音楽の歴史における多様性としてのエキゾチシズムの根源を問うDJが佳境を迎えたころには〈True Colors BEATS〉の方向性はだれの目にも明らかになりつつあった。岸野のプレイに耳を傾けながら、サンティアゴの即興演奏に参加するため、会場に待機していた大友良英は〈True Colors BEATS〉について以下のように語りはじめた。
「いま岸野さんはこういった音楽をかけているけど、西洋音楽にせよ即興にせよ、原理主義的な考え方では岸野さんがかけているような音楽はすばらしいとはいわれないんじゃないかな。でもきっと状況によっては、いいと思うんだよ。そしてこのよさはなんなのかといえば、古典的な西洋音楽や即興のよさとはべつのものだと思う。おれだって、全部の音楽がいいと思っているわけではないよ。でもそうやって、こういう意味でおもしろいんだとか、それをみつけていくことに興味が移ったんですよ」

その理由について大友はことばを継ぐ。
「ヨーロッパ的な音楽美学の価値観では音楽のなかだけでそれが判断されることが多いと思うんですよ。CDやレコードでいえば、アルバムという作品形態。そういった決まりきった形態のなかで物語が完結するのはすごく西洋美学的だと思う。だけど、音楽ってアルバムのなかで完結するだけじゃないよね。コミュニティのなかでどう機能するかとか、そういったよさがあって、岸野さんのかけている音楽もそういうものだと思う。おれはある時期からそっちのほうに興味が移っていって、音楽がコミュニティにいかに機能するか考えるようになった。それは同時に、コミュニティによって音楽が変わることでもあるんです。おれは「音遊びの会」という障害のある子どもたちと演奏する試みを行っているけど、それをつづけているのも彼らから出てくる音がおもしろいのはもちろん、一緒に演奏することで音楽が変わっていくから。〈アンサンブルズ東京〉でとりくんだ「盆踊り」なんかでも、踊りのリズムやテンポひとつとっても、いちばんいいのはこれでしょっていうのが協働作業でつくられていくんですよ。音楽家の指示や伝統ではなく、ぼくらの盆踊りのリズムがつくられていく、その営みはなかなかCDにはならないよね」

アートはひととひととをとりもつ触媒

大友のいうコミュニティとは固定的な共同体を意味しない。その場に形成し変化する集団のあり方であり、参加資格は問わない。資格がいらないということは条件でふるいわけられないということでもある。性別、人種、国籍、障害があってもなくても、社会状況によって少数者に分類されるものであっても差別されない集団のあり方は包摂的な社会の縮図であるとともに〈True Colors BEATS〉をささえる構図でもある。アートはそこで、その協働的な性格と形式の自由さと解釈の広さとで、ひととひととをとりもつ触媒になる。「言語」的といってもいいかもしれない。ただしそれは読んだり書いたりする前にともに感じふれあうための言語である。
サンティアゴ・バスケスのもちいるRhythm with Signs(リズム・ウィズ・サイン)はそのような言語の存在を端的にあらわしている。ハンドサインなどの非言語的なコミュニケーションが即興演奏に有効なのは、即興もまた時間に沿って展開する音楽の形式だからだが、このことはブッチ・モリスやジョン・ゾーンなど、1980年代の先鋭的なジャズミュージシャンらの野心的な試みが証明している。サンティアゴも、彼と同じようにハンドサインをもちいた即興のプロジェクトを継続する大友も、その方法論がブッチ・モリスの指揮法「コンダクション」を継承し発展させたものであることは否定しない。モリスのサインは自由な内心をなにより尊重する即興に指揮の概念をもちこんだこと、集団で即興するのに安易な混沌状態に陥らないことがなにより画期的だった。サンティアゴの弁になぞらえるなら、ゲームのルールを確立したことになるが、サンティアゴは先達の方法論のリズム面に着目し、工夫を加え洗練させたともいえる。その結果、140ものサインができたことで、微細なニュアンスまで表現可能になったが、でもそんなにたくさんあったらおぼえるのも大変なのではなかろうか。

たしかに最初は自分なんかが参加できるのか不安でしたよ、とマリア・ロールダンは笑いながら答える。彼女は今回のワークショップの参加者のひとり。出身はサンティアゴと同じアルゼンチンで、地元にいたころはサンティアゴのグループ「La Bomba De Tiempo(ラ・ボンバ・ディ・ティエンポ)」や「Puente Celeste(プンテ・セレステ)」のライブに足を運んだこともある。そんなマリアに知人が今回の企画を紹介したことで、彼女は参加を決意したが、不安ものこった。音楽経験がなかったからだ。そんな自分が参加できるとは思えない。彼女はサンティアゴに「大丈夫でしょうか」と問い合わせた。そうしたら、ゲームみたいなものだからまったく問題ないよ、と返事をもらったの。そう答えて、笑みを交わした隣席のサラとは数日前のワークショップではじめて知り合ったという。
「私は今年の8月に来日したばかりですが、地元のコロンビアでは音楽を勉強していました。留学のための来日ですが、通っているキャンパスで〈True Colors BEATS〉のスペイン語のフライヤーをみつけたんです。私はサンティアゴ・バスケスさんのことはよく知らなかったですが、ハンドサインによるシステムに興味をおぼえ参加することにしました」

じっさい参加してみてどう思ったか。ワークショップの感想を、ふたりは以下のように述べる。
「すごく楽しかったです。私は日本語を勉強中なので、日本語で充分なコミュニケーションをとることができません。そのような状態で参加してみたら、大半が日本人だったのもあって、最初は気後れしていました。ところが、ハンドサインのシステムが想像以上に直観的だったのもあって、時間が経つごとに言語や国籍の壁が消えていくような感覚をおぼえました」(マリア・ロールダン)
「個人的に感動しましたし、感情的になる体験でもありました。私はコロンビアではジャズを勉強していました。しかし学校という枠組みのなかでアカデミックな勉強を窮屈に感じるにようになったの。もともと音楽のなかにあったはずの遊び心がわからなくなってしまった。それで音楽の勉強を中断したんですが、今回このように参加することで音楽には遊び心があっていいんだ、ひとびとがつながることで音楽があるんだ、と確認できたのは感動的でした」(サラ・ズルワガ)
知識や経験や技術がなくても、日本語がうまくなくても参加者のだれもがひとつになれる――「音楽ってまるでユニバーサル・ランゲージだよね」とふたりは声をそろえ顔をみあわせる。
言語といいゲームというと、あたかも正しさや見本があって、厳密なルールが存在するみたいだけど、ここでいうルールは排除したり境界線をもうけたりするためのものではない。ハンドサインは広場に線を引いて陣地をとりあうというよりも広場そのものをつくりだす方法なのだから、参加者はそこで思うまま歌い奏で踊り、感じればいい。私はサンティアゴ・バスケスのハンドサインによる即興演奏にふれたのははじめてだったが、演奏を目のあたりにしてそのことを確信したのである。

ダイバーシティはなにかをおもしろくする

岸野雄一のDJにつづく、オオルタイチとコムアイ(水曜日のカンパネラ)によるYAKUSHIMA TREASUREとMonaural mini plug(モノラルミニプラグ)の演奏で窓外の荒天さえ吹き飛ばした会場では、メインアクトとなるサンティアゴとワークショップ参加者とゲストアーティストによる即興演奏に向けてメンバーが定位置に集まりはじめた。指揮者であるサンティアゴを要の位置に、扇方に広がる集団の第一列には大友をはじめ、芳垣安洋と高良久美子、勝井祐二や岩崎なおみ、角銅真実らの姿もみえる。アルゼンチンからの来日組であるフアナ・モリーナやミロ・モージャはサンティアゴと活動をともにする音楽家で、ことにフアナはさきほど話を訊いたサラとマリアも声をそろえて大好きというほど人気が高い。そういえば、サンティアゴとフアナ、大友と芳垣と勝井はかつてアルゼンチン音響派なるムーブメントで同じ釜のメシを食った(?)、いわば旧知の仲であり、全幅の信頼を置くものの存在は演奏において碇のような役割を担うのかもしれない――と思うまもなく、演奏はスタートし、種々の打楽器、管楽器、弦楽器がモチーフとなるパターンをリレーするように響かせていく。リズムは多彩だがかならずしも複雑ではなく、反復や模倣の可能性にひらかれることでコミュニケーションの回路になっている。
ジャズなどの即興を重視する分野では演奏を「対話的」と呼ぶことがあって、それは当意即妙さの意味だが、参加者たちがくりひろげる、なめらかさより熱量の配分多めの音の交換は対話としてはたどたどしかったりもする、でもそれがおもしろい。

大友良英のいう協働の楽しみとよろこびはこんなところからあふれるのだろうし、即興する場のなかでは訓練を積んだプロフェッショナルも、きょうはじめて楽器を手にしたひとも、同じように、ときにおずおずと、ときに思い切って踏み込まなければ音楽はつづかない。そのことは、フアナやコムアイやxiangyu(シャンユー)、ermhoi(エルムホイ)など第一列にならんだゲストアーティストたちの表情をみてもわかる。指揮者がいて、プロとアマチュアが混在する、この構図は意地悪にみると主従関係ともとらえられかねないが、サンティアゴのサインは指示や命令ではなく、対話の糸口にすぎないのだと、全体から伝わってくる。あっち側に、サラとマリアが楽しそうに小物の打楽器で拍子をとっているのがみえる。彼女の隣でリズムをとっているのはぺぺだ。
取材の場にちょっとおくれてあらわれた彼はこんなことをいっていた。「僕はダイバーシティを定義する僕なりのことばをもちあわせていないけど、それがなにかをおもしろくすると確信しています」彼らの右手、中央外側ではダウン症の参加者が巧みなスティック捌きでリズムをくりだしている。さらにこっち側では持参したホースを頭上でふりまわしている参加者がいる。自宅の庭でホースをふりまわしたら通りがかりのひとに奇異な目でみられるだろうが、ここでは表現行為である。ぺぺのいうとおりかもしれない。ダイバーシティはなにかをおもしろくする。音楽はそのことを私たちに直観させる。感じたことをもとに、ひとは日々の暮らしや家庭や友人関係や環境や会社での仕事や、ひいては社会や世界についてだって考えないとはかぎらない。そんなダイバーシティということばからはじまる無数の広がりを感じた〈True Colors BEATS〉の一日だった。

Text: Masato Matsumura
Photo: Kunihiko Satake

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